劇場の扉を開ける理由と、野外劇を企てる理由 その1

北川です。
気付けば年末、なんだか光陰矢のごとし、もう2017年も終わりです。
昨日、出身サークルの公演を見に行ってきました。すくなくとも私が所属していたときよりはいろんなことがきちんとしていて、終演後にOBの話を聞く、みたいなタイミングがあるのですが、統率の取れっぷりに若干引きました。自分が4年間、いろんなものを犠牲にしてただ次の世代に送り届けたいと思っていた空間に、今も変わらず人が集まっていることに、感慨深いものがありました。
なんだか色んな所にいろんなことを書き散らしているのですが、もうまもなく私は芸術監督の任期を終えます。引き継ぎのための書類の整理をしているのですが、4年間、棚ビッチリにいろんな書類を作り、またいろんな資料をもらっていまして、なかなかこれが骨の折れる作業です。そんな時、ふとドキッとする書類が出てきました。B4サイズの企画書、プレゼンのためにお持ちいただいた資料です。この4年間の取り組みに関しては、先日セゾン文化財団さんのviewpointに書かせてもらったのですが、今日はそこに書けなかった、でもこれは私だけのものにしておくにはあまりに惜しいこの企画書の思い出を、ここに書いとこうと思います。

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2013年の夏だったと思います。ちょうど玉山悟から北川大輔への芸術監督引き継ぎのリリースを出した直後で、私は来年のプログラムの編成に躍起になっていました。若手支援プロジェクトが少しずつ浸透して、まだ見たことのない劇団さんとの出会いも出来始めていた頃で、劇場に企画の持ち込みのお電話を日常的にいただき始めていました。そんな頃。その電話も普通の劇場の利用希望の電話のようでした。

が、

イマイチ要領を得ないのです。「2階席はありますか」「フライング(大劇場ではたまに見るやつ、いわゆるワイヤーつけて「飛ぶ」やつです)はできますか」など、うちの劇場に一度でもお越しいただけた方ならわかると思うのですが、定員94席のブラックボックスです。フライング、できないことはないですが専門の業者さんに来ていただいて機構を準備いただいて初めて可能になる程度の設備です。いやいや、銀◯劇場じゃねえんだからさ、と、小さな劇場をからかってんのか、と思い、とりあえず企画書ベースで話をしないと埒が明かないので、企画書持って来てもらうことはできますか、という話になりました。電話を切って、なんか変な感じだったわ〜みたいな話をしていたのですが、
その2時間後。

北川さん、来客です、と言われ、アポなしの営業さんは困るよ〜と思ってみてみると、そこに立っているのは中学生か高校生くらいの少年です。誰だ?と困惑していると、手に企画書を持っています。

その時、全てが繋がりました。あの電話をしてきたのは、彼だったのです。無下に追い返すこともできませんから、企画書を一緒に見ました。

不慣れなワープロソフトで作ったのでしょう、ところどころ文字のフォントも違えば、サイズもまちまち。演目は「ピーターパン」でした。話を聞こうにも、どうにもうまく話ができないようで、彼が何らかの障碍を持っていることは明らかでした。

ただ、企画書には彼の夢が溢れていました。キャストの欄を見ると、フック船長は学校の先生のようです。
ウエンディの弟ジョンとマイケルは、彼の家族の名前が、そしてウエンディにはおそらく彼がいいなとおもっているであろう女の子の名前がありました。2階席は5,000円、1階S席は8,000円でした。フライングが必要なのも納得です。

もうその時どういう話をしたのかは朧なのですが、ひとまず劇場を借りるには大きなお金が必要なこと、またあなたは未成年だから保護者の方の同意が必要なことを告げて帰ってもらいました。
一応電話番号の記載があったので、彼が帰った後しばらくして電話をかけました。
女性の声で彼の名字を名乗ったので、母親であることは明らかでした。
王子小劇場と申します、と言うと、声はくぐもります。露骨に警戒されたので、実はこういうことがありまして、お電話いただいて企画書も持ってきていただいたのですが、内容が内容だったことと、保護者の方の同意がないと貸し出せない旨を伝えてお帰ししました、と言い終わるか終わらないかのうちに、

「もう本当にそういうの相手にしないでください!」

といって電話は切られました。お母さんは明らかに不愉快だ、という態度で電話を切りました。
もちろん劇場の貸出のための営業をしようだなんて、こちらも思っていません。ただこういうことがあったので、というのを報告しなくては、と思ったのですが、結果ガチャ!と切られました。

それから私はしばらくこの話を引きずっていました。あの時、何が正しかったのだろう、何が彼にできただろう、いや、そんな何かできるだなんてものはただの感傷で、彼の為を思えばそんな話聞くこともなく、無理だよ、ときっぱり断ったほうが良かったのではないか、とも思いました。お母さんの対応も、私のようにただ一瞬話を聞くではなく、一緒に生活をする人としてはある種必然なリアクションのような気もしてきました。こうやってショックがってること自体が、ひどく偽善のように感じられました。
この件自体は劇場のミーティングにも上げ、劇場のスタッフともどういう対応ができるだろう、という話になりました。もちろんできることはやったという思いと同時に、もっと他のアウトリーチ系のワークショップを一緒に探したり、何ならその先には自立支援のプログラムに演劇がもっと顔を出しても良いんじゃないか、という話にも拡がりました。
家に帰った彼は、お母さんから何を言われたでしょう。
実現可能性はさておき、彼はどこかで見た演劇を、自分でもやってみたい、と思った。そしてそれを劇場に勇気を振り絞って電話して、企画書を持ってこいと言われたから、企画書にまで落とした。持っていって話はしたが、帰ったら母親からすごく怒られてしまう。きっと、彼はもう劇場に来ることはないのではないか、と思ったのです。

その時辺りから、私がこの劇場で何か事業をやるたびに繰り返すようになった言葉があります。

「劇場は、常にあなたのために扉を開けています。何かやりたい、って思った時は、いつでも来て下さい。」

そのための準備を、私たちはしておかなくてはいけないのだ、と強く思いました。あれから4年経ち、サンタクロースになってみたり、子どもたちとのワークショップに出向いてみたり、マツコ・デラックスになってみたりしましたが、折につけ、「誰にでも開いている場所、としての劇場」を考えました。そして少しずつですが、いろいろなお話をいただけるようになりました。もちろん全てに良い御返事ができたわけでもなく、悲しいけれどご一緒できなかったものも多々ありました。それでも。

我々劇場スタッフは、常にあなたに向けて劇場の扉を開けています。
何かあったら、是非相談に来てください。もはやうちの劇場じゃなくても構いません。
場所を管理・運営している人は、必ず何かしらの情熱を持ってその場所にいると思っています。是非、あなたの情熱をぶつけてください。
そしてもし、それに我々を選んでいただけるのであれば、こんなに光栄なことはありません。

長くなりましたが、まだタイトルの後半、「野外劇を企てる理由」にまで行けなかったので、続きます。
最後まで読んでもらって、ありがとうございます。
よかったら演劇祭のサイトも覗いてもらえると嬉しいです。

→佐藤佐吉大演劇祭2018in北区特設サイト

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